雨粒の夜  〜『蜻蛉』サマ、砂幻シュウ様より。


これは未だカンベエが仕事を失わず、多忙な日々に追われていた時の事。
家事と仕事に奔走するシチロージへ、毎日帰宅の電話を欠かさなかったカンベエは、その日、降り立った家近くのバス停で珍しい姿を見た。
「シチ、こんな時間にどうした?」
「お迎えにあがりました」
小雨の降りしきる中、傘を片手に立っていたシチロージは、バスから降り立ったカンベエに小脇に抱えていたもう一つの傘を手渡す。
「雨が降っていましたので」
にこりとそう微笑むと、朝はお持ちではなかったでしょう?と付け加える。
「疲れて帰って来ていらっしゃるのに、濡れ鼠ではあんまりだと思いましてね」
「これしきの雨ならどうとでもなるというのに」
「私が気になったのです」
二人が居を構えている場所からバス停までは、歩いて十分程の距離である。
雨は雨とて、小粒の雨が霧のように降り仕切る今宵の程度ならば、カンベエにとってそれは雨とは云わなかった。それにもし雨脚が強まったとしても、走って帰宅すれば濡れ鼠になる前にはなんとでもなる距離だ。
最近では家の玄関で帰宅を待つ事の多くなった己の女房の珍しい出迎えに、
「家で時間でも持て余しておったか?」
とカンベエが問い掛けると、しかし白面の女房はいいえ、と首を横に振った。
「そういう訳では御座いませんが。偶にはいいものでしょう?」
そういう気分になったのです、とシチロージは微笑んだ。
「夕食の支度が済んだ頃にカンベエ様の電話を受けまして。窓を見れば雨だったので、これはと思ったまでの事です」
「態々すまぬな」
「いいえ、私の気紛れですよ」
滅多にない事をして驚かせるのも一驚だと思いましてね。カンベエ様の驚いた顔は久々に拝見しました。
バスから降り立った時の事を云っているのだろう。悪戯にそう微笑んだシチロージは、傘を片手にくるりと向きを変えると家路へと足を向けた。
シチロージの眼の無いところでは終始難しい顔をしていると云われるカンベエである。
バスから降り、出迎えに来ていたシチロージを発見した時は心底に驚いたので、その時の顔の事を云われているのかと、カンベエは先へ家路へと下る女房の姿に苦笑した。



カンベエとシチロージの家は、閑静な住宅街に立っている。
夜になっても車の行き来が絶えない大通りにあるバス停から、住宅街へと伸びる小道へと一歩足を踏み入れると、其処は虫の音が心地よく響く街の喧騒からはかけ離れた場所であった。
昼間は親子連れで賑わっている近所の公園も今は人気も無くひっそりと静まり返り、雨に濡れそぼったススキの穂が、秋の風にゆらゆらと揺らめいている。

近道のためにその公園を二人して横切れば、
「生憎の天気ですが」
とシチロージがふと切り出した。
「今宵は十五夜なのですよ。雨月となってしまいましたがね」
そう云って、夜空を見上げた。
習うようにカンベエも空を見上げるが、其処には厚い雨雲があるばかりで望月らしい光は無い。
「折角の十五夜なのでお迎え序でに月見でも、と思ったのです」
「十五夜か。忘れておったわ」
「そうだろうと思ってました」
現在日々を時間に追われているカンベエは、暦を見はするが、其れは日付確認以外に見るものであって、それ以外の行事の欄をゆっくりと眺める暇もない。
雨空を立ち止まって眺めるシチロージの傍に立ち、改めて夜空を見上げると、分厚い雲が時折風に流され、その切れ間から微かな光が覗いていた。
「最近のカンベエ様は何かとお忙しいご様子。偶にはこうして、夜の散歩もよい気分転換になるかと思いましてね」
「そういえばお主とこうして夜道を歩くのは久々であったな」
職場を共にしていた頃は常にともにあった二人も、環境が変わればそうはいかない。
忙しい毎日に、せめて一緒の時を作ろうと住居を共にしたはよかったが、カンベエの仕事は多忙を極め、共にいるシチロージも仕事と家事に追われる毎日で、最近では夜の外出も控えていた二人であった。

シチロージの言の葉に改めて辺りを見回せば、公園の外灯に照らされる植物は秋の其れへと姿を変え、草陰からはコオロギの音色であろうか、りんりんと心地よい羽音が聞こえている。辺りが暗いので今は確認できないが、園に生い茂る木々も黄色や赤の秋の其れへと色を変え始めているだろうと想像がついた。
「秋の虫か。毎日のように此処を歩いているというのに、忙しさに感けて気付かなんだ」
「雨が上がれば虫の音も更に響きを増します。折角の十五夜でしたのにそれもお聞かせできず、残念です」
「何、お主のお陰で秋の気配を感じられたのだ。月見ならば改めて、十三夜にでもすればよかろう?」
「十三夜ですか。それはよう御座いますね」
十五夜と十三夜、どちらかだけの月見は形見月となり古代より良く無いものとされている。
それをふと思い出し、カンベエが提案すれば、隣の女房はその白い面にふんわりとした笑みを刷いた。

傘の影から夜空をじっと眺めていた所為か、シチロージの白い面に雨粒がしとりしとり張り付いている。その雨粒は彼の輪郭を形取り、外灯の淡い光がそれを反射してきらきらと光っていた。
「雨月でも月見は月見だ。お主が云うてくれなければそれさえもできなんだ」
雨粒に微かに打たれ、仄かに色気を増した己が女房の姿にカンベエが誘われるままに指を這わせると、
「十三夜は晴れるとよいですね」
頬にカンベエの指先を受けうっとりと眼を細めて、シチロージは微笑んだ。


十三夜の夜は想い人と過ごすが為、十五夜の夜に意中の人を誘うは古の人が使っていた手段である。
伸ばされた浅黒い指先に、己の白い其れを絡めて微笑む白磁の細面を眺めたカンベエは、十三夜の日は忘れずにおこうと一人こっそり心の内で誓ったのだった。


了(2008.09.22)


● 56000HITお礼で受付しましたリクエストの中より、Morlin.さまから頂いたお題
 「尻になぞ敷かれていない!」設定での勘七お月見話でした。
 Morlin.さま、十五夜の日に間に合わなくて申し訳ありません…!
 このお話ではバリバリ仕事をしているおっさまが、
 何故現在無職になっているのかは不明です(わー)

 Morlin.さま、こんなものでよろしければどうぞお納め下さいませ。
 リクエスト有難う御座いました^^


● 勘七サイト『蜻蛉』サマ、砂幻シュウ様より。

 お忙しい中、リクエスト企画をなさってらしたのへ、
 ちゃっかりと乗ってしまったらあっさり我儘を聞いていただいてしまいまして。
 こちらさまには、とっても艶のある妖冶で切ない勘七話や、
 お母さんなシチさんの優しいお話、時代劇パラレルなどなどがいっぱい揃っておいでで、
 私もほぼ毎日伺っては口開いて見ほれつつ拝見させて頂いております。
 いけずだったり天然だったりするカンベエ様に振り回されてる七さんも、
 逆に天然勘兵衛様を掌の上で転がしている、そりゃあ出来たお人な七さんも、
 こちらさんの彼はどんなタイプさんでも大好きでございますようvv
 砂幻サマ、ありがとうございましたvv
 大切に読まさせていただきますね?

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